三大関所”野間之関所”へようこそ!

鹿児島の陸路では「出水筋」「大口筋・加久藤筋」「高岡(日向)筋」が代表的な街道です。
薩摩の三大関所として,出水筋(いずみすじ)の「野間(のま)の関所」,大口筋(おおくちすじ)の「小川内(こがわち)関所」,高岡筋(たかおかすじ)の「去川(さるかわ)関所」が上げられます。
この他,辺路番所,津口番所などを各所に設けて取り締まっていましたので,「薩摩飛脚」と言って薩摩への道は危険が多かったようです。


野間之関所跡(のまのせきしょあと)・・・(所在地:〒899-0123 鹿児島県出水市下鯖町2578   

 

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薩摩街道-野間之関
 薩摩と肥後との国境にある野間之関(鹿児島県出水市下鯖町・出水駅から車で10分)は,薩摩第一級の番所であり,その峻厳さをもって全国に知られた。「薩摩びと,いかにやいかに,刈萱の関もとざさぬ世とは知らずや」高山彦九郎があまりの出入国の厳しさに書き残した一文もある。

薩摩街道は,筑紫平野から熊本平野、八代平野を抜けて八代海に出たあと九州山地、国見山地、出水山地東端の山間を通る。江戸時代の薩摩藩(島津)、八代藩(松井)、人吉藩(相良)、肥後藩(細川)、柳川藩(立花)、久留米藩(有馬)各藩の参勤交代の道として利用された。天正15年(1587)豊臣秀吉が九州平定に向けて薩摩(島津征伐)に軍を進めた道であり、明治10年(1877)の西南戦争時に薩摩軍が北上した道でもある。

 薩摩街道は福岡県の山家で長崎街道から分岐して久留米、山鹿、熊本、八代、水俣、出水を経て串木野から薩摩半島を横断して鹿児島に至る。距離は約395km。
 
 薩摩と肥後との国境にある野間之関(鹿児島県出水市下鯖町・出水駅から車で10分)は,薩摩第一級の番所であり,その峻厳さをもって全国に知られた。「薩摩びと,いかにやいかに,刈萱の関もとざさぬ世とは知らずや」高山彦九郎(寛政三奇人のひとり)があまりの出入国の厳しさに書き残した一文もある。

高山 彦九郎(たかやま ひこくろう)
 延享4年5月8日(1747年6月15日) - 寛政5年6月28日(1793年8月4日))は、江戸時代後期の尊皇思想家である。父は高山正教、母はしげ。兄は高山正晴。妻はしも後にさき。子に高山義介ほか娘など。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人。名は正之。

 1791年(寛政3年)には九州各地を旅した後に薩摩藩を頼ろうとするが退けられ、一時は豊後国日田において捕縛される。その後も幕府の監視を受け、1793年(寛政5年)筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃する。享年46。

篤姫も通ったと言われる野間之関所

 天保6年12月19日(1836年2月5日)、今和泉島津家の当主・島津忠剛の長女として薩摩国鹿児島城下上竜尾町大竜寺馬場(現在の鹿児島県鹿児島市大竜町の区域にあたる)にて生まれる。嘉永6年(1853年)、従兄である薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、同年8月21日に鹿児島を陸路出立し熊本を経由して江戸藩邸に入る。(この時に野間之関所を通っていると思われる)

 

渋谷の藩邸から江戸城までの輿入れは先頭が城内に到着しても最後尾は依然、藩邸にいたという。 安政3年(1856年)に右大臣近衛忠煕の養女となり、その年の11月に第13代将軍・徳川家定正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った。なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることは無かった。


見づらいですが古井戸です。



小川内関所跡(こがわちせきしょあと)・・・(所在地:鹿児島県伊佐市大口)

藩政のころ,薩摩藩から領外に通ずる街道として出水筋・大口筋・高岡筋   の3つのおもな道筋がありました。大坂(大阪)や江戸(東京)に行くには,大 口筋・出水筋では熊本を経て小倉に,高岡筋では日向細島に出て,そこから 海路大坂への道を取っていました。大口筋は横川から本城・菱刈を通り,山野・小川内の関を通って肥後水俣に抜ける道で,肥後との国境に当たる小川内には関所(境目番所ともよんだ)があり,ここを中心に領外に通じる間道には辺路番を置いて取り締まっていました。 番所の検問は厳しく,他国者の領内旅行や荷物の持ち出しにはいろいろな制約があり,往来する者の所持 品・身元調べに目を光らせていました。 

当時の記録によると,「小川内定番」と呼ぶ藩士2人が1か月交替で勤務につき,このほかにも郷士15人が番所に詰めていたむかし,関守だったという小川内丸田家には,いまも捕り物に使った刺しマタ,関所の通行手形,日誌などが保存されています。 小川内関所がいつの時代に設置された分かりませんが,文政年間(1818~1829)に書かれたという「大口古事見聞記」によると,享禄のころ(1530頃)すでに小川内には関所があったと記録されています。関所が廃止されたのは明治2年(1869)3月のことであり,およそ三百余年にわたり関所が置かれていたことになります。 

昭和7年(1932)7月,関所跡に高さ4.3メートルの自然石の碑が建てられました。碑には「薩摩国小川内関所跡 昭和七年七月七日 蘇峰徳富正敬書」と刻まれています。参考文献:ふるさと散歩(大口市郷土誌編さん委員会編集) 

この関所を通過した著名な事件・人物を紹介してみましょう。 ・天正15年(1587年)島津を征服した豊臣秀吉は,曽木天堂ヶ尾で新納忠元と面会後,通過した。 ・天正20年(1592年)秀吉の朝鮮出兵で島津義弘新納忠増(忠元の次男)の大口軍はここを越えた。 ・享保 8年(1723年)藩主の島津継豊が参勤交代で通過した。 ・明和 3年(1766年)藩主の島津重豪が参勤交代で通過した。 ・安永 4年(1775年)筑前の学者亀井南冥が通過した。 ・文化 9年(1812年)地理学者伊能忠敬が通過した。 ・文政元年(1818年)詩人頼山陽が通過した。 ・安政 5年(1858年)僧月照と入薩した志士平野国臣が月照入水のうち大口筋からの出国を命じられた。 ・明治10年(1877年)西南戦争では別府晋介の前衛隊が大雪の亀坂を越えた。http://www.geocities.jp/seinan_eki/kagosima/kogawatisekishoato.html



去川関所跡(さるかわせきしょあと)・・・(所在地:宮崎県高岡町)


 薩摩三街道のひとつ(日向街道)の関所(去川関)の跡です。
薩摩と日向との国境を固める関所ですが、薩摩藩の関所の中ではもっとも厳重な関所として知られていたものです。
(薩摩飛脚は冥途への飛脚)などというような言葉は、この去川関から生まれた言葉です。
薩摩から日向送り罪になった場合、この去川関を通過して日向へ抜けていくわけですが、実際には
関所に近づくと高岡の郷士たちがやってきて、なぶり殺しにするのが慣例だったようです。つまり、
薩摩から日向へ抜ける手前で、別の形で処刑されるというのが、(日向送り)の意味だったようです。
 

幕末、西郷隆盛が討幕運動を裏で支えていた月照を薩摩に匿うつもりが、本藩によって月照が日向送りに処されると、西郷隆盛が月照を抱えて錦江湾に身を投げたのも、去川関で殺されることがわかっていたからです。
 この関所は高岡の郷士たちが交代で番所勤めをしていたのですが、二見氏が代々関所の総括責任者として高岡郷を束ねていたようです。
二見氏の館跡、歴代の墓所も関所の近くに現在でも残されています。http://log05.gozaru.jp/b/sarukawanoseki.htm